真夜中の膠抜き。
おこしやす つらら庵 ♪
夜中に絵の具の膠抜き(接着料である膠だけを洗い出して、絵の具を全くの粉の状態に戻す事。日本画特有の作業)をしながら、ふと思う。
芸術とは一体何なのか?芸術に於いて、新しいとは一体何なのかという事。
趣味でやっている分には、ただ楽しければ良い。
庭に咲く花でもなんでも、描いていて楽しいければOK。
趣味は、与えられたその人の人生を豊かに彩る事が目的。もっと言えば、世に出さずとも良い。
では、芸術は?
もう衆目を集めるには効力を失った事件かもしれないが、昨年はやんごとなき方の写真を燃やして踏みつけた映像作品の是非が問われた。
あれは、美しくない。
人を歓ばすものでもない。
社会貢献的に、何かに益するとも考えにくい。
(一部特殊な階級には益かもしれないけども)
‥それよりもなによりも、やんごとなき方の写真を燃やすなど、イカン!
しかし、人から出て創作の意図があり、形になった物は全て芸術なんやと僕は思う。
余人がそれは芸術ではないだの美しくないだのと判断を挟めるシロモノでもない。
人が産んだ子供に、「お前は醜いから人間ではない」と言うやろか?
全てのイメージはその美醜に依らず、"子"なんよね。
びっくりするかもしれないけど、産まれた子供に産みの親たる芸術家が苦悩する場合もほんまに多い。
なんでこんな不肖な子が自分から産まれる?
ってな事を感じながら創ってる人も多いのではないかな?
しかし芸術家としてはどんな子であれ大衆とシェアしないといけない。
「うちの子ですねん!」
しかし、子は土足で上がり框に踏み入る、他所宅の物を盗む、可愛げのない行為で眉をひそめられる、、、
芸術家がまず困る。
すんません、うちの子が、、、、。
ご迷惑を掛けまして、、、。
芸術はしばしば恣意的に創られていると思われている事がある。
だから、「あんな物を創りやがって!」となる。
ちがうねん。実は創ろうとして創っていない事もある。芸術家一個人の意図を反映していない事がある。
もちろんガチガチに恣意で固める場合も多いけど、現代美術なんてのは特に、芸術家の恣意に反して生まれてくる事も少なくない。
現代美術は繊細な受信機なんですよね。
周波数さえ合えば何でも拾いよる。
時代を勝手にミラーのように反映したりする。
そしてそれは時代が混乱していればしているほど、一見醜怪に感じてしまうもんなんやと思う。
前提として芸術は是非を問われるものではない。
それは全て是なんです。
創作物に非なんてない。
そこはとりあえず理解してほしい。
人間として産まれ出て人間でない人間が居ないのと同じ。
‥それを税金をかけて開催して良いかどうかはしらんよ。
そこだけは難しいところ。
(まぁそれを言い出せば芸術家は、文化で食いながら文化を蔑ろにするこすっからい我が国家が保証する唯一の支援金で、衆目を歓ばすためだけの碧眼を備えた白馬のような美しい芸術しか生み出せなくなるけども。それはそれでおもんないんちゃうの?)
あと、人って本当に単純だなぁと思うのだけど、その手の禁忌(タブー)に斬り込んだ文芸作品なんて、今までどれだけあっただろう。
それはなぜ是とされているのか?
それは単に、イメージとして衆目に上手く飛び込んでこないからなんですよね。
文芸家はうまーく暗喩や隠喩やなんやかんやで眩まそうとする。それは非常に分かりにくいシロモノに仕上がっている。
しょーちん。がそうだったけども、周りの大人からいい子だいい子だと言われつつ、実は内心アカンベーをしている小賢しい子供も多いんです。子供が全て純心なのではない。
件の作品より悪意の強い物も沢山ある。
分かり難さの幸いなるかなです。
絵や立体表現はビジュアルです。見たままが全て。受け取りやすい。
花を描けば花だと思われるし、う○こを描けばう○こだと思われる。
あれ、そらそうか?(笑)
そこに衆人は怒るんです。ビジュアル的表現という、根本に怒られる事がある。
目に見える形として出すからには、美しくないといけないと思われている。
分かりやすい芸術を産め産めと急かすのに、それがたちまち眉をひそませるような物ならフルボッコです。
いったいビジュアルで表す宿命を背負った芸術家はどうしたらええんや?
‥あの作品や芸術家、団体を護りたい訳ではないけど、芸術表現だけは護っていかなければならないなぁと改めて思った事件でした。
あれ、何の話?
はよ絵描かんか!
また、おこしやす つらら庵♪
■ひとことコラム■
分かりやすく言うために、芸術を仮に"子供"としたけど、本当は芸術は全て吐瀉物だと思っています。
人間が吐くと、昨日を生きた食べ物が出てきます。
これが西方の神々なら花が出てきます。
それがいい!芳しい香と共に落つピンクの薔薇。
‥しかし、芸術家は西方の神々でも何でもなくて、そこら辺にいる昨日を生きた人間なんですョ。