消費期限のある幸福。
ーー人間の幸福に消費期限があるとしたらーー
僕はお金が欲しい。
出来ればたくさん。
‥いや、お金そのものというよりはしっかりとした収入が欲しい。
自分以外を富ませることのできるくらいの収入。
…あなたは幸せになるにはどうしたら良いかと真剣に考えたことはあるだろうか?
当たり前やけど、幸せになるには自分にとってまず何が幸せなのかを考えねばならない。
収入があり、人生のパートナーがいて、趣味も充実していることが幸せなのか?‥。
僕の考えなのですが、本当の幸せとは、なんの前提もなく条件もなく、単独で立つ事ができるものを幸せと呼ぶ。
そう思っています。
幸せとは、たとえ美しくはなくとも、朝顔のように何かに支えられて花開くものではなく、それ自身で立脚できるほど強さも兼ね備えていないといけない。
そう思っています。
褒められて喜ぶ。ものを貰って喜ぶ。優しくしてもらって喜ぶ。
これら単純な幸せは、言うなれば強く、"優等生の幸せ"です。
僕の"劣等生の幸せ"はというと、昔からそうなんやけど、両親の幸せがそのまま自分の幸せだと一途に思っている。思い込んでいる。
‥孝行の息子と褒められたくて言ってるんではない。
あくまで病的な一種の症例としてこの話を聞いて欲しいんですよ。
僕は、随分前の幼い頃から自分個人で消費し切ってしまうような幸せに凄く不安を感じるようになってしまった。
例えていうと、1つのあんパンを僕にくれたなら、それは直ちに3つに千切って両親にも与えられるので僕にとって幸福。
しかし、僕のために服をくれたなら、それはもうたちまち不安になってしまう。
それは、分けることのできない僕1人に向けられた、僕1人で消費しないといけない幸福やから。
幸せが怖い事もあるんです。
いつ、どうしてこのような構造になったかは知らないが、一つだけ言えることは、これはきっと良く無い事だということ。
なぜならば、この僕の幸福には消費期限があるから。
消費期限、、、それは両親の死です。
両親が死んだら、僕は幸福を感じなくなってしまうのかもしれない。それではダメだと思う。
息子が1人で落魄している姿は両親にとっても悲しい。(これも両親目線で考えてしまっているので何とも言えないが‥)
絵を褒められることがある。
これは本当に幸せです。
でも、これもよくよく考えてみると、僕自身で完結している幸せだろうか。
息子が褒められて両親が幸せそうだから僕は幸せなのでは無いか。
‥わからなくなる時がある。
こういったことが、少しおかしいのではないか?という事実も、最近まで気付いていませんでした。
人生というものが一回性(深い話をすると諸説あるのかもしれないが)である限り、他の人がどうかなんて窺い知れないやん。
ましてや、僕は不登校で周りの者と人生観を含め、比べる機会ががなかったので、その辺がほんとわかんない。
どうだろう、僕おかしいんかな?
もちろん両親と良好な関係を築けているなら誰もが両親の幸せを願うでしょうが、僕の場合は両親の幸せそれ自体が僕の幸せになってしまっている病的な幸せです。
両親が幸せで無いと僕は全く幸せでは無いのです。
「両親が死ぬまでに、なんとか立派になる」
そんな消費期限のある幸せを、今は懸命に、「腐って食べられなくなるまでに‥」と焦りつつ貪っています。
‥そして楽しく生きている。
両親の死後、僕は夢も欲も全てなくなってしまうんだろうなぁとふと思うことがある。
未知の世界ですが、それについては不思議とそこまで怖く無い。
僕の第二の人生とも言える両親の死後、自分1人でも満足できる幸せを確立しようと最近ひっそりと頑張っている。
どう頑張ったらいいのかわからんけど。