死の覚え書き。
おこしやす つらら庵 ♪
今日は死について語ってみようかな。
もっともおバカなしょーちん。ですし、まだまだ人生経験も浅いから、大した考察にもならんやろうから、一応自分自身への覚え書きと言う事で…。
まず、大前提として、人間はいつ死を意識するのかやんね。
ちっちゃい時分は、死の意識は無いし、ましてや自分が死ぬなんて思わない。
多くは身近な人の死で自覚するんだと思います。
しょーちん。の場合は、初めて見た死に顔は母方の祖母でした。
祖母と言っても、しょーちん。の祖母、母共に23~4歳で子を産んでいるので、まだまだ若く、亡くなったのは52歳でした。
難病になってしまってね。
しょーちん。はまだその時5歳だったので、人が死ぬとかどうとかって、あまりよく解っていない所もあったと思います。
でも、祖母の死に顔を見た途端大泣きしてました。
悲しいのもあったやろし、怖いってのも単純に有ったんやろうと思う。
あと、小学一年生の頃。
子供は残酷やね。
オタマジャクシを捕まえて来て、熱湯に入れて殺す遊びをしました。
いや、正確には殺すと言うか、熱湯に入れると飛び跳ねるので、それが面白かったのかな。
死んだオタマジャクシを庭に捨てて置いたら、明くる日見ると乾いてパリパリになった死骸にアリが沢山たかってて。
それを見た瞬間、なんて事をしてしまったのかと思って、とても怖かった記憶が有ります。
この世には、代替えがきかず、取り返しのつかない事が有る。
こう感じた時、死が意識として自分の中に入ってくるんかな。
恐らく、こう言った恐怖体験をせずに、(もしくは恐怖と感じずに)大人になってしまうと、凶悪犯罪を犯すサイコパスと呼ばれる人間になってしまうのかな。
生き物を殺した時に、「可哀想な事をした」と思える心の余裕が無いといけません。
幼い子の心の余裕は家庭環境に由来します。
だからたいていおかしな犯罪を犯す人間の、幼い頃の家庭環境は荒れている事が多い。
死を意識してしまうと、次の段階に「自身の死ぬことへの恐怖」が始まりますよね。
しょーちん。も一時期、(てか、今でも目を瞑って一人深く考え過ぎると怖くなるんやけど)死後も自分を差し置いて、この宇宙は無限に時間が続いて行くのかと思って怖くなる時期がありました。
卵の賞味期限に始まって、人間の寿命まで全てが有限であるこの世と、一切が無であるあの世の対比。
いまでも怖いよ。
人間、未知の事は怖いじゃないですか。
でもね、最近思うんですけど、死ぬことを怖がっている人ほど、現世を実感して活き活きと生きていないんじゃないかなぁと。
しょーじき、死んだ後の事考えるのは、賢いんかアホなんかよく解らない人間だけ。
猫見てても思うもん。
一日一日をただ生きてるなぁ~って。
それが大事よ。
んで、死なないっちゅーのも考えたらしんどい。
生が有限であるからこその喜びとか美しさってあるやん。
若い頃の青春って、もう戻れないからこそ何か儚く、美しいってのも有る。
多分人間が千年万年生きれるんやったら芸術は流行らんと思うねんな。
と思うと、儚さや無常その物が美しいんかも。
…なんや分けわからん記事になってしまったからこの辺でやめよか(笑)
いや、書き出すと最後によく解らん事になってしまうのが死と言うテーマやねん。
そんな簡単に掴めるもんじゃ無いし、語れないのが死なんや。
それを伝えたくて、あえてこんなまとまりの無い記事にしてるんやで。(言うとけ)
最後に、しょーちん。の好きな良寛さんの句でちょっとでもこの記事を救っておくか。
散る桜
残る桜も
散る桜
そやねん、死って自分が生きている以上他人の死をもって意識してるんやろ?
他人の死を云々しても、自分も必ず死ぬねん。
死を考え過ぎるより、生きる事にもう少し思いを馳せたいね。
もっと言えば死の正しい考え方は、悲観で終わるのではなく、死の意識によって生を輝かしいものと捉える事が有為なのかも。。
また、おこしやす つらら庵 ♪
〇今日の水墨DEアニメ〇
「峰不二子」
最後ええとこ取りしよるから、本気でムカつく時ありません??(笑)