つらら庵日和

つらら庵日和。

つらら庵の職人 しょーちん。の日記。

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アオスジアゲハ

 

おこしやす つらら庵 ♪

 

「アオスジアゲハ」

 

 

自宅から車で数十分。

少し町外れの山の麓に寂れた昆虫博物館がある。

 

…俊と親子二人で行くのは初めてだ。

俊は今年の4月の半ばに8つになったばかりである。

首から下げた少し紐の長めの新幹線の形をしたポーチを手で弄んだりしながら、静かな車中から外の景色を眺めている。

 

「俊、シェイク買っていく?」

 

「シェイクはいい。だってアレ、吸うても吸うても中々でてこぉへんもん。」

 

「そら俊が焦って早く飲もうとするからやろ?」

 

…考えてみると、俊とこうして二人で喋ったことはあまりない。

お風呂に一緒に入って学校の事を聞いたりはするが、妻の様に他愛もない話をするのは苦手だった。

その事にすら今頃気付くようでは先の事が思いやられる。

妻は3日前に田舎へ帰った。

 

…山沿いの、車の行き交うのがやっとの暗い道を抜け、左手に大きな茶畑が見えたら昆虫博物館は目と鼻の先である。

10月半ばの空気は山手なのも手伝って妙に肌寒い。

遠くの方にはもう小さくブリキで出来たクワガタの形をした看板が見えている。

 

・・・

 

「着いたよ」

 

駐車場から博物館までの道を、俊は水たまりを踏みながら歩く。

 

「こら。なんで水たまりばっかり踏んでいくんや。せっかく長靴履いて来たのに。」

 

「長靴履いてきたから踏んでもええんやんか。」

 

俊は自分の知らぬ間にこまっちゃくれた理屈をこねるようになっていた。

妻のいないこの2、3日に急に実感した事である…

 

 

入場券を買い中に入る。

入口にある大きな池の中は腐ってドロドロになったホテイアオイの葉が浮んでいる。

最後に妻と俊と自分、3人で来たのは今年の6月だった。

その時はホテイアオイの葉は青々としていた事を思い出した。

 

博物館内部は道なりに1番館、2番館、3番館と続く。

1番館は各国種々様々の昆虫の標本が展示してあり、2番館は大きなハウスが続いていて、生体の蝶が放し飼いにしてある。3番館は売店である。

 

片田舎の博物館で、客も少なくこじんまりとしている。

俊は蝶が飛び交う2番館が大好きなのだ。標本にはあまり興味を示さないようだった。

 

「なぁなぁ、ここにある虫ってなんでこんな綺麗に死んでんの?」

 

「これはな、お薬を注射器で虫に打って眠らしてあるねん。だから道でよく死んでる虫みたいに腐らへんねん。」

 

「へぇ。そんな薬あるんや。」

 

「パパの小さい頃にはな、昆虫標本セットってあってん。虫を眠らせる薬と注射器、標本箱のセットな。パパの友達のター坊っておるやろ?あのおっちゃんなんか小さい頃その昆虫標本セットで遊んでて、間違って薬の入った注射器を自分の足に落として刺さってしもてな。「あかん、もう僕死ぬんや!」言うて大騒ぎした事あったわ。」

 

「あの田崎のおっちゃん?」

 

「そうそう。今度会ったら、「大丈夫や、おっちゃんが死んでも僕がちゃんと標本箱に綺麗に入れてあげるから」って言うてみ。でも、その時にパパの顔見たらあかんで!」

 

…今日初めて俊は歯を見せて笑った。

 

今日ここに来たのも、別段俊が行きたがったから来た訳では無い。

妻のいない事を、俊が薄々変に思っているのが分かったので、半ば誤魔化すためにやってきたのだ。

仕事の忙しい自分が、唯一家族で毎年来ていたのがこの博物館である。

 

しかし、考えて見ればいつも妻と三人で来ていた博物館に、今日自分と二人だけでここに連れてこられたことが逆に不安になりはしないかとナナフシの標本の前で一人思った。

 

妻はナナフシが嫌いで、いつもこの標本の前は見ずに行く。

俊は、その奇妙に長い手足が気になるのか、いつもこの標本の前でじっと見ている。

ナナフシの標本を見つめる俊の横顔を見ながら、三日前の夜を思い出した。

 

・・・

 

「回覧板、二つもポストに入ってるで。はよ回さなあかんのちゃうん。」

 

「…テーブルに置いといて。募金の用紙を世帯ごとに貰っておかないといけないし。」

 

「ふん。………ほんで、あの子はどうするん?お前のところおった方がええと思うねん。」

 

「それはそうかも知れん。でも、結局私の実家に連れてったら学校も変わらんなんし、お父さんの痴呆も年々酷くなるしね。どうしたらいいのか…」

 

「お義父さんどこまで覚えてはんの。俊の事はまだ忘れてないんやろ??」

 

「忘れてはないけど、たまに近所の似たような背格好の子と間違うらしいの。それをお母さんに聞いてから、余計先々の事、俊の環境が不安になって。」

 

「…」

 

「取り合えず暫く帰ってくる。大事な事やしそんなすぐには決めれへんやん。俊にはじいちゃんまた病気悪くなったから見てくるって言うとくし。私だって、今介護で不安なお母さんに余計な心配掛けたくないから、今回はうちの事までよう言わんかもしれんし。」

 

・・・

 

離婚の話は急に何かのきっかけで持ち上がったわけでは無い。

よその女に目を向けた事は無いし、給料もそのまま渡していた。

なぜこのような状況になったのかは分からない。妻の事は嫌いではない。

でも、それは次第次第に”生活”が凝固して行くとでも言いたいような、ある種の閉塞感だった。それ以外の理由は見当たらない。

 

…永遠に同じ形を留めるきらびやかな虫たちの前で、少し思いに耽ってしまった。

俊は自分がぼーっとしていた為か、先に2番館の方に行って舞い飛ぶ蝶を無表情に眺めていた。

 

「ごめんごめん。…外は寒いけどここだけ暑いなぁ。ムッとするわ。」

 

「うん。……なぁなぁ、この羽に書いてある”5”とか”6”って、数字の近い物同士は友達か家族なん??」

 

ー少し生ぬるい空気の大きなビニールハウス内に飛ぶ蝶には全て、飼育の便宜上でなのか、羽に番号が振ってあるのである。…三匹の蝶が俊の頭上でもつれ合いながら飛んでいるー

 

「あはは。これはな、適当に綺麗な蝶を捕まえて数字を人間が書いてるだけやから、番号が近いからと言って友達や家族とは限らんのちゃう。」

 

「ふーん。でもこの”5”と”6”の蝶が全然友達や家族じゃないんやったら、ほんとの友達の蝶はどっか遠い所におるん?ほんまにほんまに仲良しの、家族や友達の蝶は離れた所で悲しくないん?…」

 

無邪気な子供の空想なのは分かってはいるが胸に突き刺さった。

俊が自分を試しているなんて考えるのも馬鹿らしいが、妙に何一つ返す事は出来なかった。

 

 

「…せやせや、俊、今日で全部揃うやん。あとアオスジアゲハだけやもんな。もう遅くなって来たし、今日はバッチ買って帰ろか。早くせんとちびまる子ちゃん始まるで。」

 

そんなに広くはない3番館から出口までは売店になっている。

ヘラクレスオオカブトのぬいぐるみ、蝶のモビール、色々な昆虫の刺繍が入った帽子

…。俊はこの3番館が大好きだが、いつも決まってピンバッチしか欲しがらない。

 

この昆虫博物館オリジナルの鉄製ピンバッチは10種類ある。

ここに来るたびに一つづつ買っているので、残すは10番目のアオスジアゲハを買えばコンプリートするのである。

俊はショーケースのガラスを眺めながら、首に掛けた新幹線のポーチをしきりに手で弄んでいる。このポーチには今まで集めた9個の虫のピンバッチが入っているのだ。

 

 

「やっと全部揃うな。これでパパが作ってあげたコレクションケースが埋るね。」

 

…売店の女性に「アオスジアゲハを下さい」と言おうとした刹那、ショーケースに映った俊の顔が歪みだした。目から大粒の涙が落ちた。

 

「今日は買わへん。ママがおらへんもん。前に来た時に約束したもん…」

 

 

 

ー俊は昆虫の中でもとりわけ蝶が好きだ。

去年の夏休みのこと。友達の家からの帰り道でアオスジアゲハの死骸を持って帰ってきたー

 

・・・

 

妻は洗い物の手を止め、

 

「どうしたの、それ。」

 

「駄菓子屋の坂の前で死んでたから…。ウチのヤツデの木の下に埋めたんねん。」

 

「さとちゃんは優しいのね。じゃあ埋めてあげて、次にパパに博物館連れてってもらった時に同じアオスジアゲハのピンバッチをお墓に供えて、その子を天国まで連れて行ってくれるようにママと一緒にお祈りしよか。」

 

「うん。それまでは毎日僕がお墓に水をあげる。あのピンバッチを供えてお祈りしたら、このアオスジアゲハさんをきっと天国まで連れてってくれるね。」

 

・・・

 

それ以来、俊は学校から帰るとすぐに寝室に置いてある、最後のピンバッチであるアオスジアゲハが入るであろうコレクションケースを飽きることなく眺めていたのだった。

 

…俊がここ最近よく下痢をし、なんとなく浮かない顔をしているのは分かっていた。

俊の前では深刻な夫婦の会話を努めて控えてはいたが、子供の心は些細な家庭の違和感を読み取る。

妻が出て行くひと月前から俊は寝ている私たち夫婦の間に入り、二人の手を握りながら寝るようになった…。

 

 

…欲しがっていたピンバッチを買ってやる事で、俊の気を少しでも紛らわそうとしていた自分の心を恥じた。目頭が熱くなった。

 

「わかったよ。今度またママとこよ。それまでまだお墓にバッチ供えられへんけどな、いつかパパとママと三人でアオスジアゲハにお祈りしよ。」

 

俊は腕で目を覆い隠しながら静かにうなずいた。

 

・・・

 

俊の手を強く握り博物館を出ると、日は大分落ちていた。

俊は疲れて、車が動き出すと間もなく助手席で眠ってしまった。

 

運転をしながら見える帰り道の、広く開けた夕焼け空に、今日2番館で見た戯れながら飛ぶ三匹の蝶の残像が浮んだ。

 

 

 

 

 また、おこしやす つらら庵 ♪